猫と野菜とゴルフと般若心経

介護退職し両親を見送った後のバツイチ男のブログ

なぜ「般若心経」なのか?・・・その(1)

2020年1月5日
なぜ「般若心経」なのか?・・・その(1)


なぜか? これを説明するのは大変難しいしものがある。
しかし、これまでの「般若心経」と関わってきた経緯を
記すことで少し解って頂けるかもしれない。


経緯と言っても・・・?
平成8年4月1日(当時42歳)私は高知県へ所長として赴任した。その3年後には部長として高知県と徳島県を兼務することになり5年間を高知県在住で過ごした。四国はお遍路さんでいつも賑わい、私も暇を見つけてはお寺さんを訪ねた。御朱印帳は作らなかったが仕事で行った先の近くにあるお寺さんを訪ねる程度であったが30か所ほどは廻っていると思う。


どこのお寺さんに行ってもお遍路さんは般若心経を唱えて手を合わせている姿があったが当時は特に意識するものはなかった。


平成14年4月1日付で私は京都の責任者として赴任した。京都市内に1LDKのマンションを借りたが、その隣が六角堂と言う寺院で毎朝6時に窓の外からお経の声が聞こえてくる生活となった。当時は6時起きの生活をしていたのでお経が目覚まし時計のような生活であった。ある時、マンション近くの書店で松原泰道の般若心経の本を目にして購入したら、その本に般若心経のCDが付録で付いていた。


私は目覚まし代わりに六角堂のお経を聞くのも良かったが、なぜだか般若心経のCDをデッキにセットして毎朝6時に目覚ましとして聞き始めた。すると目覚めと同時に暗唱するようになり、半年後には意味は良く解らないままにCDなしでも暗唱が出来るようになった。


そして京都という風土もあり少しづつ般若心経に興味を示し内容を勉強したり、写経もするようになり、京都のお寺で開かれる写経会などにも参加したことがあった。
※(京都は2年間の生活)


平成16年4月1日付で私は福岡の責任者として赴任、般若心経とは少し縁が薄くなったが機会あるとはお寺に立ち寄り般若心経を唱え、写経は気持ちを落ち着かせるためにたまにする程度ではあったが行った。
※(福岡は4年間の生活)


平成20年4月1日付で私は四国の責任者として高松に赴任した。2度目の四国である。
2度目の四国で般若心経は暗唱できるし、御朱印長でも作り88か所を廻ってみようかなどと考えていたが、そんな時に目にしたのが大峯山千日回峰行を達成した塩沼亮潤さんが書いた「人生生涯小僧のこころ」という本だった。


私が本から学んだ事は色々とあるが「死を覚悟で千日間厳しい修行を続けることでしか得られない世界」になぜだか強い興味を持った。実は私の実家には家系図がある。父が残っていた古文書や位牌・墓石などから調べ上げてまとめたものだが、それによると私の遠祖は修験者で天神坊とある。当性となって私は12代目であるが、そんな事が影響したのか?


その時、私の血が騒ぎ単純に思い付いたのが「般若心経を必ず毎日1枚写経して千日(枚)」を目標に書いてみようと言うことだった。そしてその日の内に半紙と筆ペンを購入したのが平成20年11月3日(文化の日)でした。


そして翌日の2008年(平成20年)11月4日から般若心経を書き始める毎日がスタートした。 気持ち的には「私の千日回峰行」である。・・しかし簡単なことではなかった。


その(2)へ続く


1枚目から書いた般若心経は全て保管している。(写真はその一部)