猫と野菜とゴルフと般若心経

介護退職し両親を見送った後のバツイチ男のブログ

なぜ「般若心経」なのか?・・・その(3)

2020年1月7日
なぜ「般若心経」なのか?・・・その(3)


2011年7月31日(日)、私の千日回峰行もついに終わりの日が来た。そのは日曜日、いつもより朝の遅い時間に最後の一枚を書き終わり達成感を味わい。1000日(枚)は「自分にとってどんな意味があったのか?」などと考えていた。
・・・マイナスにはならなかったことだけは確信していた。


その夜は行きつけの居酒屋で一人祝杯を挙げたが、部屋に戻ると何故だか「明日から次の1000日(枚)をスタートさせること」を決断していた。
・・・その時の気持ちは区切りをつけて止めることも出来るがこのまま続けることに価値がある「何か自分のためになるものがある」と思えた。


そしてスタートし2000日(枚)を達成したのが2014年4月26日
翌朝には次の1000日(枚)への挑戦を決意する自分がいた。
・・・この時は3000日(枚)が区切り的に良い数字だと単純に思った記憶がある。


2017年1月19日、ついに3000日(枚)を達成した。
振り返ると毎日続けて8年2か月が過ぎていた。なぜ自分でも続けられたのか明確には分からない。


この先はどうしようか考えていると10年と言う数字が浮かんだ。そして3652日(枚)を区切りの最終目標にしようと思いついた。※閏年が2回入るため3652日となる。
・・・この時は2014年9月に還暦を迎え、定年も65歳まで延長されたこともあり現役中の心の拠り所として目標まで書き続けようと思った。


しかし思わぬ出来事が起こったのは2017年4月18日(火)のことである。
出張先の仙台から新幹線で東京へ帰る途中に携帯が鳴った。弟から母が骨折して入院したと言う電話であった。そのまま大宮からJRを乗り換えて病院へ直行した。


骨折は大腿部頸部骨折で人工関節置換の手術をするか判断が問われた。母も高齢(87歳)であるが手術を決断して検査が進んだ。検査結果から白血病の疑いもあると言われ、入院が長期(3か月ほど)になる可能性が高いことを告げられた。


その日の朝、仙台で書いた般若心経は3086日(枚)目であった。


父を世話していた母の入院により環境が一変した。母の入院中の父の世話を誰がするのか、母が退院しても母は満足に動けないし・・・私が両親の面倒を見るしかない。
 ・・そして母の退院と同時に退職をすることを決意した。


そして2017年4月19日の写経を最後に(3087日(枚))中断することにした。


翌日からは4時起きで父の朝食と昼食を用意し東京まで通い、帰宅してから夕食を作り、週末には母の病院へ行く生活を3か月続け、母の退院に合わせて7月末付で退職した。
その後約2年間は両親の介護に追われる日々であった。


そして昨年8月に母が他界、10月に父が他界し、残された私の空虚な毎日に心の安らぎとリズムを与えてくれると確信できる写経を2020年1月1日から再スタートしようと決めた。
 


仏壇の前に写経を重ね、目標の3652日(枚)残りの565枚を書き上げることで両親の供養を行い、私の行としての区切りも付けたいと考えている。


なぜ「般若心経」なのか? 長々と経緯を書いてきましたが、この先写経をしながら思うことや感じることをブログに書いて行く予定です。 以上


仏壇前に重ねた再スタートの般若心経

なぜ「般若心経」なのか?・・・その(2)

2020年1月6日
なぜ「般若心経」なのか?・・・その(2)


私の千日回峰行という思いで書き始めた般若心経だが、当時は筆ペンで半紙に266文字を書くのに40分くらいの時間が掛かった。毎日1枚を必須とするとその時間の確保は大変厳しいものがあったが、朝起きるのを40分早めて行うことにした。


そして、早起して写経することにより生活にリズムと不思議な落ち着きが出てくるようになっていった。一日のスタートとしての充実感のようなものが自然と沸き起こり、継続させる原動力にもなっていったように思う。


出張時などは筆ペンと半紙と下敷を忘れないようにセットにしてレターパックの中に入れて常にカバンの中に入れておく工夫をした。時にインク切れになるとボールペンで残りを書き、朝の時間が無い時は夜中に書き、続けることでそれが何故か心の安定と大切なリズムとなっていった。


1000枚は約2年10か月弱を必要とする長い道のりだが何故か途中で止めることは絶対にないと確信をしていた。継続すればその日は必ず来ると・・・


そしてその日が来た2011年7月31日だ・・・・ ⇒その(3)へ続く

なぜ「般若心経」なのか?・・・その(1)

2020年1月5日
なぜ「般若心経」なのか?・・・その(1)


なぜか? これを説明するのは大変難しいしものがある。
しかし、これまでの「般若心経」と関わってきた経緯を
記すことで少し解って頂けるかもしれない。


経緯と言っても・・・?
平成8年4月1日(当時42歳)私は高知県へ所長として赴任した。その3年後には部長として高知県と徳島県を兼務することになり5年間を高知県在住で過ごした。四国はお遍路さんでいつも賑わい、私も暇を見つけてはお寺さんを訪ねた。御朱印帳は作らなかったが仕事で行った先の近くにあるお寺さんを訪ねる程度であったが30か所ほどは廻っていると思う。


どこのお寺さんに行ってもお遍路さんは般若心経を唱えて手を合わせている姿があったが当時は特に意識するものはなかった。


平成14年4月1日付で私は京都の責任者として赴任した。京都市内に1LDKのマンションを借りたが、その隣が六角堂と言う寺院で毎朝6時に窓の外からお経の声が聞こえてくる生活となった。当時は6時起きの生活をしていたのでお経が目覚まし時計のような生活であった。ある時、マンション近くの書店で松原泰道の般若心経の本を目にして購入したら、その本に般若心経のCDが付録で付いていた。


私は目覚まし代わりに六角堂のお経を聞くのも良かったが、なぜだか般若心経のCDをデッキにセットして毎朝6時に目覚ましとして聞き始めた。すると目覚めと同時に暗唱するようになり、半年後には意味は良く解らないままにCDなしでも暗唱が出来るようになった。


そして京都という風土もあり少しづつ般若心経に興味を示し内容を勉強したり、写経もするようになり、京都のお寺で開かれる写経会などにも参加したことがあった。
※(京都は2年間の生活)


平成16年4月1日付で私は福岡の責任者として赴任、般若心経とは少し縁が薄くなったが機会あるとはお寺に立ち寄り般若心経を唱え、写経は気持ちを落ち着かせるためにたまにする程度ではあったが行った。
※(福岡は4年間の生活)


平成20年4月1日付で私は四国の責任者として高松に赴任した。2度目の四国である。
2度目の四国で般若心経は暗唱できるし、御朱印長でも作り88か所を廻ってみようかなどと考えていたが、そんな時に目にしたのが大峯山千日回峰行を達成した塩沼亮潤さんが書いた「人生生涯小僧のこころ」という本だった。


私が本から学んだ事は色々とあるが「死を覚悟で千日間厳しい修行を続けることでしか得られない世界」になぜだか強い興味を持った。実は私の実家には家系図がある。父が残っていた古文書や位牌・墓石などから調べ上げてまとめたものだが、それによると私の遠祖は修験者で天神坊とある。当性となって私は12代目であるが、そんな事が影響したのか?


その時、私の血が騒ぎ単純に思い付いたのが「般若心経を必ず毎日1枚写経して千日(枚)」を目標に書いてみようと言うことだった。そしてその日の内に半紙と筆ペンを購入したのが平成20年11月3日(文化の日)でした。


そして翌日の2008年(平成20年)11月4日から般若心経を書き始める毎日がスタートした。 気持ち的には「私の千日回峰行」である。・・しかし簡単なことではなかった。


その(2)へ続く


1枚目から書いた般若心経は全て保管している。(写真はその一部)